ドイツ育ちの私でも母国語は日本語です(後編)

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前編では私の小学校までの経緯を書かせて頂きました。簡単に言うと・・・ドイツにて出生→現地幼稚園→デュッセルドルフ日本人学校→現地校ギムナジウムに編入(ココから)。

なんとなく自分は周りの子とは環境が違うなぁ〜。その理由を自分がより”ドイツ的だから”だと結論付けていました。ですから、小学校を卒業するタイミングで現地校に編入することにそれほど不安を感じていませんでした。悩んだのは1日だけ(笑)「大丈夫。ドイツ語もある程度は分かるし。生まれ育った国の学校じゃない。大丈夫。」前向きというか、能天気な性格なので、それも手伝ったとは思います(笑)

因みに、日本学校→現地校に移行するパターンにも幾つかバリエーションがあり、ギムナジウムが日本でいう小学校五年生からなので、そのタイミングで移る子や、日本の義務教育を終えてから(つまり高校一年生で)移る子が割合で見るとやや多いです。小学校卒業を機に移る子は比較的少なかった(私の学年では私だけ)です。

嫌だったら辞めて良いよ

言うなれば中途半端タイミングでの編入にも我が家なりの理由がありました。母は最終的な決断を私にくだせるように余裕を持たせてくれたのです。日本語を母国語として学ぶ為に日本人小学校に通い、それを中学一年生で方向転換することを受け入れることが出来るかはやってみないとわかりません。「嫌だったら日本人学校に戻って良いよ」と言ってくれました。負けず嫌いの私のスイッチを意図的に入れたのかは分かりませんが、やってみれば良いじゃないか、と思わせてくれたのは事実です。

誤解されがちなので敢えて強調したいのですが、バイリンガルになれるかどうかは頭の良さはあまり関係ないのです。親御さんの覚悟、周りの環境や、本人にそもそもその気があるかないかの方が重要です。

というのも、高校一年生で編入すると勉強内容も年齢相応に難しくなっている上に、授業をドイツ語で受けなくてはならず、しかも、英語の他に第二外国語、第三外国語までこなさなくてはならないのです。留年もあっさりさせられます。それでも及第点を取れなければ退学です。ドイツ人ですら毎年何人かが涙を飲むのです。そんな大海原に放り込まれるわけですから、ついていくには強靭な精神力と努力が必要なのです。日本の教育システムに戻れないわけではないですが、これはこれで勇気が必要な決断です。

「あれ、私って一体何者なのよ・・・?」
アイデンティティー崩壊(?)Part2&自信喪失

話は長くなりましたが、小学校を卒業した五日後にギムナジウムに編入しました。1999年3月15日、月曜日。初日から「先生の言ってることもわからないし、黒板が読めない」ことが非常にショックで、隣の席に座っていた日本人の先輩同級生(変な言葉ですね。笑)に頼りっきりで、本当に右も左も分からないスタートでした。

話は逸れますが、私は今も昔も大の人好きで社交的です。新しい環境に身を置くこと自体にストレスは感じないですし、寧ろ好きな方です。小学校二年生の夏に初めて一人で日本に飛び、二週間ほど祖母の家の近くの小学校に体験入学したのですが、初日からクラスメイトを連れて帰っていました(笑)

話はドイツにまた戻りますが、ギムナジウムは日本人学校と全てが違っていて、二時限ごとにあるたった15分の休み時間をどうやってやり過すかを考えなくてはならない日々は、元来お喋りで人好きの私にはそれなりに堪えました。そこでいかに自分の思い込みが間違っていたを知るのです。

ドイツ語も話せなければ、ドイツのことも何にも分かっていない。ドイツ的な部分なんて何も持ち合わせていないことに気が付くのです。私の思い込みという名のアイデンティティーは砂の城の如く崩れ落ちていきました。

学校の勉強も数学以外は全く歯が立たない。教科書1ページを読むのに一時間かかる。授業に積極的に取り組むことも宿題もままならない。学ぶ愉しみを感じる余裕も全くなく、勉強することが仕事だと言われている子供にはどうしたら良いのか全く分からないわけです。生まれて初めての高い壁を目の前に挫折を感じたのでした。

”ジャパンコンプレックス”の始まり

ただし、負けず嫌いな私の心はどこかで燃えていました。三ヶ月で出戻り娘にはなりたくなかったからです。進級の条件を正確に調べたり、戦略的に生き残ろうとしました。勉強はいくらしても、すぐには追いつかないことは分かっていましたから。

ただ、頭では分かっていたものの、傷付いた心のバランスを保つ為に私に小さな変化が起こりました。それは、ギムナジウム編入と同時に通い始めた補習教室※の勉強を熱心にし、日本語の書籍をかなり精力的に読むようになったことです。すぐに読めるような軽い小説から小林秀雄などの中学生には些か難解なものも好んで読みました。心の拠り所を日本語に求めていたのです。生き残る為に。

留年の心配は三年も経った頃にはなくなっていましたが、「全てが日本語だったならば、こんな思いをせずに済んだのに・・・」という葛藤とずっと戦い続けていました。自分の実力を現実として受け止められなかったので、日本という国に全ての答えを求めていたのだと思います。海外で思春期を過ごす子の多くは何かしらの形で日本を強烈に意識することが少なくないですが、それを”ジャパンコンプレックス”と勝手に呼んでいます。

母国語は心の支え

しかし、日本及び日本語を心の拠り所にすることができたのはある意味では幸せです。私には日本語がある、日本の文化を知っているという自負心が心の支えになっていました。母国語にはそれくらいの力があるのです。もしも、アビトゥーア取得がかなわなかったとしても、それはそれで乗り越えていたと思います。

ギムナジウム生活はそれほど楽しくはありませんでしたが、デュッセルドルフは学習環境が最高に良いですし、大切な友人との出会い、ラテン語との出会い、母の忍耐強いサポートのお陰でギムナジウムを卒業して、多くの友人の予想に反してドイツの国立大学に進学を決めました。(デュッセルドルフ補習教室は先生方も素晴らしく、日本の有名私立・国立大学合格率(帰国子女枠)も非常に高かったのです。)

(ラテン語との出会いはこちら)

妄想日本の影が薄れる時

ギムナジウム時代、「アビトゥーアを取ったら日本の大学に進学して、日本に行くんだ」とドイツ語を嫌うあまり、日本の影を追い求めていました。しかし、ギムナジウムをなんとか卒業して、大学に通い始めてから何がきっかけだったのかは分からないのですが、心の中のわだかまりがすーっと溶けていくような感覚がありました。そこが私の再スタートでした。

ドイツ語力も大学時代に熟成されたように思います。自分の意思でベルリン自由大学に進学することを決め、自分で選んだ教科の勉強をして、今まで逃げてきたことと向き合う覚悟ができたのだと思います。そう、最強のラスボスであるドイツ語と!

今ではドイツの大学に進学して良かったと心から思っています。私が今こうして通訳として食べさせてもらっていることもベルリン自由大学時代がなかったら難しかったでしょう。しかも、私は日本国籍であるにも関わらず、Bildungsbürgerといって学問上はドイツ人と同等と見做され、国費で交換留学までさせてもらいました。ドイツの奨学金も貰っていましたし、私の母は「私がこれまでドイツに払った税金はあなたで元取ったと思う」とよく言っておりました。ドイツで生まれた子供には無条件でこれだけのことをしてくれるのです、ルーツなんか関係なく。これって、すごいことですよね。感謝の気持ちを忘れてはなりません。

最後に

世界中には本当にたくさんの国際児がいます。家庭内言語、母国語、学校をどうするかでお悩みのお母様・お父様は多いと思います。この記事を読んでくださっている皆さんもご関心がおありなのだと思います。前編でもお伝えした通り、完全攻略法はありません。

ただ、私が実体験を通して大切であると感じていることは、詰まるところ、覚悟と愛情です。我が家はドイツに居ながら日本語を選択しました。現地校に編入した後、ドイツ語がそれほど伸びなかった時も母に「どうして出来ないの」「もっと勉強しろ」などと責められたことはただの一度もありません。「江利菜はよく頑張っているよ。」「これからも頑張って。」とずっと応援団長をしてくれていました。海外で一人で子供を育てるだけでも大変な苦労があったはずですが、彼女は全てを受け入れる覚悟をし、様々な決断を下してきたのだと思います。本当に恵まれた環境におりました。

強いて言うなら・・・

ひとつだけ言えるとしたら、言葉遣いとお作法には厳しかったように思います。例えば、「うちら」「〜じゃん」は我が家では「我々」「〜でしょう」と言うのがよしとされていました。少しでも至らない部分があると、どうしても「海外育ちだと日本語もちゃんとできないのよね」「仕方ないわよね」「やっぱり父親がいないと大変よね」と全然関係ないところまで言及されてしまいがちなので、それは意識していたと思います。(その所為か、私の話し方や素振りを「若作りしたおかん」みたいだと評した方がいらっしゃって・・・当たらずとも遠からずかもしれません。笑)

最後にもうひとつだけ。混ぜこぜちゃんぽんだけはNGです。これは思考停止を促すのでどちらも中途半端になってしまいます。親御さんとして、これだけは管理してあげたほうが良いと思います。

※補習教室とは:現地の学校に通っている主に日本人の生徒たちが週に一、二回通い、国語・数学・社会などを学ぶ学校。世界中でほぼ共通して「補習教室」「補習校」と呼ばれています。