東京都現代美術館で10月17日まで開催されている『GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?』展に行ってきました。
5歳から展覧会開幕3週間前(つまり85歳!)に描いたという絵まで、横尾忠則の一生とも言える、15のセクションにわたる横尾ワールドにダイブイン。
作品の様式毎にセクションが分かれている。作風が信じられないくらい違って、まるで複数のアーティストの展示に行ったみたいだった。それでいて、同じモチーフが何回も何回も登場する。その対象は神話だったり、滝だったり、Y字路だったり… その自由奔放さに彼の問いを感じる。
美術手帖のインタビューでも語っているように、ニューヨークMoMaのピカソ展でピカソの自由気ままさに衝撃を受け、「やっぱり絵でないと僕の考える生き方はまっとうできない」と45歳で世界的グラフィックデザイナーをやめて、いわゆる「画家宣言」した横尾忠則。ピカソの画風に憧れたりはしていないそうだけど、でも、キュビズム的要素は強いから、多少の影響は受けてる気はする。
かの有名な滝の絵葉書のインスタレーションは、直島旅行した時に豊島横尾館で見たことがあった。横尾忠則と建築家の永山祐子による古い民家を改修して作られた展示空間で、平面絵画の他に、石庭と池、円筒状の塔にはインスタレーションが展開され、生と死を想起させるちょっと不気味で同時にパッション溢れる場所だった。赤い窓ガラスが印象的で、中に入る前に見ている風景のはずなのに必然的に気分が変わってしまう。それがシルクスクリーンとか、コラージュというか、アンディ・ウォーホールの作品を初めてみた時の感覚を思い出す。
そして、ここ東京で再びおびただしい滝の写真がタイルのように視界いっぱいに広がり、さらに床は鏡面になっているから段々と方向感覚が失われていくのを感じながら不安になる。違う場所で見ているのに、どうしてこうも普遍的なんだろう。きっと、これも彼の死生観を表現しているのだろう。まさしく横尾ワールド。
寝ても覚めても制作していないと描けないくらいの展示数に圧倒されながらも、一番印象に残ったのはY字路シリーズだった。これは、横尾忠則が子供の頃にかつて通った模型屋跡地を撮った写真に、彼の”個人的なノスタルジーを超えた普遍性を感じたことをきっかけに生まれた”らしい。
僕のライフワークになりつつあるY字路の第一作目は郷里の西脇の椿坂の途中にあるが、中央の先端の建物を真黒ケに塗りつぶした。建物というよりそれ自体が彫刻のように見える。何故か異様な感じで、Y字路というシチュエーションがより明確にその意味を主張し始めた。 pic.twitter.com/lcG6VGWBPd
— 横尾忠則 (@tadanoriyokoo) December 13, 2018
そして、これがこんな風に・・・日本中のY字路が編纂されていく。
— 横尾忠則 (@tadanoriyokoo) August 13, 2020
ドイツにはあまりないY字路。東京に越してきて数年経つけど、びっくりするような所になんとも不恰好な建物が立っているのをみつけては、つい、未だにカメラを向けてしまう。何に惹かれるのか自分でもよく分からないけど、行き先が分かれているということの揺らぎとか、そのふたつの世界線を繋いでいる家がくれる一種の安らぎとか、なにせイマジネーションを掻き立てられる景色なのです。ほぼ日のY字路談義でみつけたタモリさんの言葉を借りるなら「居心地の悪い気持ちよさ」が私の心を掴んで離さない。
右と左で世界が緩やかに、しかし、確実に分かれている。自分の選んだ道と、選ばなかった道とで心が右往左往しそうな・・・リアルなんだけど架空のY字路が、景色のようでもあり、頭の中のようでもあり、中でもとっても気になる一枚があった。タイトルを確認すると「意志の彷徨」とあり、繋がっているなぁと思うとちょっと嬉しい。
そういえば、Y字路談義の終盤では、コンセプチュアルアートをやり尽くしたからこそ出る、アンチテーゼとも言える言葉が印象的だった。ドイツはコンセプチュアルの方が主流な気がするし、作家本人による言葉を求めている側面があるから、コンセプトを持ち込まないって言われちゃうと戸惑う。でも、そうかもなぁとも思う。
頭はコンセプトを持っちゃうけど、
体っていうのはさ、もうぜんぜん、
熱いとか冷たいかとか痛いとか痒いとか、
コンセプトでもなんでもないですよね。ところが、頭というのは、ともすると
「あ、12時だ。おなかがへった」
とか考えたりする。
ほんとにおなかがへったかどうかも
わからないのに、そう考えるというのは、
コンセプトですよね。Y字路談義。
横尾忠則・タモリ・糸井重里が語る芸術?より(2004年)
それと繋がっているかは分からないけど、今年のCasa Brutusによるインタビューではこうも言っている。
最近の絵には僕の考えはあまり導入してなくて、どちらかというと身体的なものを優先して手の動くままに描いた感じなんです。概念と対立するのが身体だから。
展示の最後の大きなセクション「原郷の森」は新作が多く並んでいるのだが、これまでの作品と比べると色合いやタッチが柔らかく、明るい。思うがまま、体に負荷をかけすぎずに描いているような、そんな印象。寒山拾得など神話・伝承をモチーフにしているのは相変わらずだけど、ゆるりゆるり、気持ち穏やかに眺めていられる。モネの睡蓮をいつまでも見ていられるような、包まれるような気持ち。まぁ、トイレットペーパーとか便器とか首吊り輪が随所に登場してるんだけども(笑)
まだまだ横尾忠則の進化は続くように感じる、力強い展示でした。
関連するインタビュー記事など
横尾忠則にインタビュー! “85年”の画業を振り返る『GENKYO』の圧倒的空間。
『カーサ ブルータス』2021年9月号より
「怪人二十面相」のようにさまざまな顔を持つ「横尾忠則」という稀有な存在
TOKYO ART BEATより
「ピカソが僕を変えた」横尾忠則、ピカソを語る。
美術手帖より。
Y字路談義。ー横尾忠則・タモリ・糸井重里が語る芸術?
ほぼ日刊イトイ新聞より
気になる書籍
「本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた」横尾忠則著
あれだけ多くの作品を生み出すエネルギー、創作の原点ってどこにあるのか、原体験以外にはどんなものがあるのか俄然気になってしまって。